絶望は希望 

もう生きるのをやめたくなるような絶望感を久々に味わったkazuです^^


でも、絶望ってとても大事なものだって思います。

そして今思うのは、どんなに絶望していようと思っても、いつまでもそのままではいられないんだなあってこと。

いままでの自分の生き方に絶望したら、もう自信も何もなく、ボロボロな気持ちになります。

だけど、それがとっても大事なことなんだって思います。


自分を失うのが怖いから小さくまとまった自分にしがみつき、今までの小さな自分のやり方に固執して、そんな小さな自分を自分だと思い込んで生きてきた。

それが根底から崩れる。


大きな変化をするには必ず必要な過程なんだなって思います。

他人のために食事をつくること 

急遽来客があって、考えるところがありました。

夕食をどうするか。

私だけだったら、なんでもかまわないんですが、人が来ると考えると、悩む。


きっと相手は何でもいいとか、どうでもいいとかって思うだろうけど、作る側になるとなかなかそうはいかない。

あんまり美味しくないとか、こんな程度の料理しか出来ないのか〜、なんて思われたくないとか、
そんな邪(よこしま)な考えが出てきます。



私の母は決して料理が上手とは言えませんでした。
きっとそれ程料理が好きでもなかったんだろうし、得意でもなかったんだろうって思うし、母の親もきっと料理好きで、楽しんで料理を作っている人ではなかったんだろうって思います。

それでもみんなのために食べるものは作る必要があったわけで、そんな大役を若い母が自らが背負って毎日食事を作ってくれていたんですね。
もちろん他の家事もやっていたし、内職をしていたり、パートなんかにも行ったりしていました。


自分がやらなければ、何も批判される事もないし、文句を受けたり、注文をつけられたり、時に嫌な顔をされたりすることもないけど、自分がやる立場になったら、どうしたってそういうものは受けざるおえません。

私も母の料理下手を批判的に思っていたりしましたけど、そんなのは自分はそんな毎日の他人の食事を作るという文句をつけられるかもしれないという責任を背負う立場に立ちもせず、傍観者の立場でただの批評家に成り下がっていただけなんだなって思いました。


自分は料理が得意だとか、上手だとか思われたり言われたり。
それでそうありたいというエゴがあったのですが、そんなものがあると、結局は自分が苦しくなっちゃうんですね。


毎日そのままの自分をさらして相手のための食事を作っている母の姿の中に、人間としての尊さを感じ、それを賞賛できる自分でありたいと思いました。

ふと思い出したこと 

中学の時はバスケ部の幽霊部員、高校の時は帰宅部だった私は、大学生になった時に初めて自分の意志で部活動に参加しようと自分から空手道部に入部しました。

新入部員は私一人。
部員数は私を含めて5人。夜間の先輩も入れると6人。
昔は部員も大勢いてかなり強かったらしいですが、弱小空手部でした。
なのでOB陣はすごい充実していて、見るからに怖そうなOBがやっている道場に毎週皆で通っていました。

毎年行われる6つの理工系の大学対抗戦では、その年は最下位でした。

部員が少なかったので先輩達だけでは人数が足りず、翌年の2年生のときに私も大学対抗戦の組手の団体戦に出場することになりました。


試合に向けての練習も厳しくて、1年の時は気分的には高みの見物のようなところがあったけれど、自分が参加することになるとその精神的なプレッシャーは比べ物にならないものでした。

2年の時の夏の合宿は私の人生の中でも精神的・肉体的に最も苦しかった経験でした。



で、自分が試合に参加しないとわかっていた時は、道場での練習は確かに厳しくて緊張感もあるんですが、それでもどこか精神的にもゆるい感じがありました。

ところが自分がいざ参加することになると、先輩と一緒になって実践的な稽古をしないといけなくなります。

組み手が大の苦手な私は、怖くて苦痛で、本当にもう嫌になりました。


実際に参加してみて、自分がその当事者の立場になると、もう頭の中は真っ白で、身体は震え、がちがちに緊張して動けなくなりました。


馴れ合いの練習で出来たことや頭で考えたことなんて、実践ではなんの役にも立たないんだ、ということをそんな経験で痛感しました。


これは実生活でも同じだなって、そんなことをふっと思い出しました。


あれこれと良かれと思って色んなことに手を出したりもするけれど、いざという時に役に立つのは、本当にこれだけは!と言って力と心を真剣に注いだものでしかないんだよな。

そう思ったら、ある意味少し気が楽になりました。




嫌で堪らなかったけど、学業も行き詰っていて、これが最初で最後の大会かもしれない、と覚悟を決めて練習にも耐えました。

何の因果か、その年の我が空手道部は5戦全勝、十数年振りに優勝を果たしたのでした。

平本相武さんのセミナーにて 

先週の平本相武さんのセミナーの時の気づいたことのお話です。


初日の昼食の時にご一緒した人達とお話をしていたときのことです。

皆さんとても素敵な人達で、既に自分のやりたいことをみつけていて、それに向かって一歩踏み出してそれを実現されている方もいて、その実感を伴ったリアルなお話がとても心に響きました。
ああ、すごいなあって感じたんですが、そのことは端折りまして・・・


自分のことを聴かれたときに、私は今の仕事がどうにも納得がいかず、でも本当にやりたいことは何かと思うと、それもはっきりせず、だから本当は自分が本当に大切にしたいと思う価値観とか、そういったものを見つけたくて平本さんのセミナーに参加したのだということを話しました。

質問を受けたりして話しているうちに、自分はむしろ大変な思いをしているスタッフの人たちのケアをしたいんだ、というようなことを口走った時、向かい側に座って話を聴いてくださっていた方の目が、キラキラと輝いて見えました。

それだけのことなんですが、私にとってそれはとってもインパクトを感じた瞬間でした。


翌日の朝、セミナー前の時間に、私はノートに向かって今の自分の落ち着かない気持ち、もどかしい気持ちをぶちまけていました。


そうするうちに、自分の気持ちがわかってきました。


私はどんな仕事をしていようと、本当は形としての仕事ではなく、そこに問題があってそれに気づいていない人、問題の本質が見えていない人に対して、自分がきちんとその問題の本質に対して対処できるような手助けをしたい。

本当に純粋な気持ちや志を持っていながら、でも問題の本質が見えずに問題を抱えながらグルグル回っている人、一生懸命に頑張っていながらも良くなれない人、そんな人の心が腐ってしまわないうちに、その人に力を貸したい。

怒りや不満を溜め込んで投げ槍になり、燃え尽きてしまう前に、その人の純粋な気持ちを取り戻し、その気持ちをもっと強くして、そしてもっと良くなって欲しいと思う。
自分も同じだから。

私はグルグルと回りながら、自分の生活を維持しながら、必死でそこから抜け出す方法を求めて何年も生きてきた。
ただ指をくわえて生きてきたわけではない。
私は自分が懸命に生きてきた姿を心から愛しく思うし、誇りに思う。

問題があることを誤魔化さず、向き合ってそこにエネルギーを注ぎ込む生き方をこれからもしてゆくと思うけれど、自分がそうした生き方をしてきた中で培われたものを、これから自分が手を貸すことでよい結果を導けるような人に対して役立てるようになりたい。

自分の問題を解決したいと願うと同時に、人の役に立てるだけの、人にありがたいと感謝されるだけのことが出来るような自分になりたい。

その方が、努力も楽しくなると思うから。


そんなことに気づきました。


結果の見えない努力を続けるのはとても苦しいことです。
まして今現在が苦しいのに、それが実感として改善されないと、余計に苦しい。

結果が見えないから自信もつかない。
先が見えないから、不安にもなる。


それでも自分を励まし、自分を信じ、頑張っている自分を自分で愛すること。

結果なんてものよりも、むしろ結果が出ない状態の今、本当にそんな自分を心から愛せるかどうか、信頼出来るかどうか、それが試されているんじゃないかってすら思います。

打ち上げ 

職場の納涼祭が終わりました。

私自身はそれ程何をしたということはなかったんですが、でもそれなりに皆大変で、それ故に私もいつもとは違う大変さがありました。

なのでああ、終わったなあという気持ちはあります。


よく、こういうイベントの後には打ち上げをやりますよね。

よくやった!ごくろうさま!

という意味合いがあると思います。

それはそれで良いことだって私も思います。


ただ、本当にそれは自分がやりたかったことなのか、自分が達成したかったことなのか、ということが一番大事なところではないかと思います。

今の私が、仮に自分のために一人打ち上げ?をやったとしたら、それはストレス発散でしかないと思います。

要するに、やりたくもないことを我慢してよくやった!ということにしかならない。

そういったご褒美を自分にやってばかりいたら、そういった生きる姿勢が強化されかねない。

大事なのは、本当に自分がやりたいと思ったことを、ここまでやろうと決め、それを達成した時に自分を労ってご褒美を自分に与えて喜ぶ、ということだと思うんです。


他のスタッフを見ていて感じたことですが、自分も気をつけようって思いました。